萱アートコンペ2023 10/1~10/22

Comment by Naoki Matsumoto

萱アートコンペ2023 講評 Kac2023フライヤー掲載  

     とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。――夏目漱石『草枕』

     さて、8回目の「萱アートコンペ」。他の審査員から、今回は「手練れが多い」と指摘がありましたが、私自身も同感でした。こうした理由からか、審査員ごと大賞へのノミネートはバラバラで、なにを選考基準とするのか? という議論も生まれたほどです。

     そんな中、見ごと「大賞」を勝ち得た佐藤仁美氏の《反射》は、巧みなステイニング(滲み技法)で得られた透明感のある画面に、大胆に、抵抗感のあるパール絵具を薄く敷くことで、画面の中央部分を遮蔽してしまうという、大変「手練れ」た絵画でした。また「優秀賞」は、抜けるような視線の動きをつくる形象と、これに抵抗しまるでタックスかのように視線の流れをくい止める「ブルーシートの掛けられた干草」(?)を点在させ構築するという「手練れ」感のある、古川奈津季氏の作品《ぼっち》でした。

     (奨励賞である滝川真紀子氏の《stitch map 202》をはじめとして、他の入賞作を振り返っても)今回の応募作は、いわゆる「風景」にもかかわらず「ここではないどこか」を探し求めるような、そんな作品が多かったように感じます。
     こうした作品群の中で、私が推した作品は、小林実佳氏の《眠るまでわからない》と、Shannon Craig氏の《Parallax Shift》でした。

     ところで、中国戦国時代の荘周の「胡蝶の夢」は有名です。(荘周は)蝶となって心地ちよく羽ばたいていたところ、突如目覚めてしまい、自分が蝶の夢を見ていたのか、はたまた今まさに蝶が、自分(荘周)となった夢を見ているのか判然としない、というものです。
    この説話は、私たちの知覚が絶望的に明晰ならざることと、ゆえに主観的な解釈でしか「現実」を捉えることができないこと、さらには、だからこそ「現実」(という認識)は可塑的であるということを示唆しています。

     ともすれば、地球という常に動く惑星に私たちが縛られているからこそ、何万光年も離れた天体を、視差シフトとして観察出来るのだし、もっといえば(対象との距離ではなく)、観察者の知覚器官である右目と左目を隔てる数センチの距離(ズレ=Parallax)の方がよっぽど重要だと気付かせてくれます。あるいは「現実」をよりリアルに直視するために、私たちは、いっそのこと目を閉じて、眠ってしまう方がよいのかも知れません。今回の審査を通じて、このようなことを考えました。

萱アートコンペ2022 総評 Kac2022カタログ掲載  

     今回の「萱アートコンペ2022」では、応募可能な作品サイズが拡幅され、作品の並ぶ審査会場はいつになく壮観でした。
    F8からF10号という10cmに満たない拡幅であっても、作者の仕草や思考の軌跡は追いやすく、私的にも作品「サイズ」と、画中で展開される「諸相の関係性(世界)の密度」=作品「スケール」についてあらためて考える機会となりました。
    審査については、やはり本年も審査員たちの見解は見事に割れ、討議の末の受賞/入選作選定となりました。

     大賞である豊田玉之介氏の《untitled》は、シンプルで軽やかな色彩はもちろん、軽妙に分節された線と、その微細な揺れからうまれる、前髪などの「ペラペラな浅い空間」は、たいへん魅力的です。豊田氏は2作品を応募されましたが、当作が選ばれた理由も、他方にはモチーフの面白みがあったものの、こうした大胆で繊細な画面構築が欠けていたためです。
     また今回は、版画の応募がいっそう増えました。優秀賞であり、やはり2点応募された下坂靜子氏の《respectively》の選出にいたっても (「沈むような深い空間」のある作品ですが)豊田氏同様の理由があったためと考えます。そして、Blanc賞のカナアキラ氏による《3-4》には、十字にねじれた人物の首元から腰までの動きと、現実から突き放された肌に、美しさを感じました。
    そしてさらに、倉羽博之氏による《翠の空に茜の雲》の梅田版画工房賞受賞は、軽妙さや大胆さよりも、緻密で複層的な「絵画」を成立させるための「画力」が認めらたからでした。

     こうして受賞作の一端をかえりみると、われわれ審査員は、昨年よりいっそう際立つ、この最低でクソったれた今の世相において、画中の人物の、虚な/物憂げな/達観した/ラリった/視線に、強く惹かれたということがあったのかもしれません。ニュース等で目撃する現実の事象は、どうしても肌身で感じとってしまう、ただ底抜けに堕ちていく時勢を、ゆえに抱えきれない漠然とした底抜けの不安を、解消しても代弁してもくれません。「現実」とは大きな流れの断片でしかありません。しかし「絵」は、(絵空事という言葉が示すように)われわれに、ヴィジョンを、総体的なイメージを、想起させてくれるのです。

    また、惜しくも受賞にいたりませんでしたが、特に印象深かった入選作を書きとめます。
    鮮やかな色彩と、直接的な空押しとで、紙を穿がこうとする吉村英里子氏の《ささめく》。田代ゆかり氏の《車の中から》には、微睡み体をもたれるバンの後部座席で、ふと見上げた車窓から風景が立ち上がる瞬間が、大山克幸氏の《首のない僕からの手紙》には、指でほじくりかえし擦りつけたかのような(絵具の質感も相まった)「蠱惑的」な筆触が、それぞれ画面にとどめられていました。そして志賀龍太氏の《エンドロール》を「押し」たこと、最後に積極的な素材使いをした意欲的な作品群があったことも、ここに記しておきます。

萱アートコンペ2021 審査講評  
松本直樹 
2020/10/16

     受賞者・入選者のみなさま、この度は、本当におめでとうございました。今回の「萱アートコンペ」は、その数もさることながら、今までになく様々なスタイルの作品が集まりました。
    こうした中で、われわれ審査員の票も割れ、これまでで一番難航した審査だったといえるでしょう。
    いつになく討議を交えながらの審査となり、大賞と優秀賞をめぐっては、ほぼ同票で、なかなか決まるに至らなかったことも、ここに付しておきます。

     また、全体の作品傾向として、「ねこ」と「室内」というモチーフが多く、現在の「機運」ともいうべきものが、それぞれの作家にこのモチーフを要請していったものなのかしら、と興味深く観させていただきました。

     さて、個々の作品については、大賞である《ミントな夜》(肥沼義幸氏)は、憂いた瞳が印象的な絵ですが、「イラスト」という非常に大きなカテゴリに飲み込まれそうになりながらも、どうしてもはみ出してしまう‘余剰さ’がある作品で、この意味で、未だ“絵画”である、という緊張感を持っています。これは優秀賞の豊田玉之介氏の作品にも同様にいえること――つまり「イラスト」や、あるいは「先行例」への‘回収されきれ無さ’からくる魅力ではないか、と考えています。

     佐藤未瑛氏の作品は、小作品ながら絵画の多層性に挑んでおり、色彩や、質的に異なる絵具の扱いによって、画面に奥行きや広がりなどを感じました。また、ささきりょうた氏の作品も、黒のみで仕上げられているものの、非常に大きなスケールを感じました。のちに聞いた話しによると、ささき氏は音楽家である、とのこと。なるほど「音楽」にスケールはありますが、いわゆるサイズはありません。

     そして、藤木光明氏の《Punga Mare》シリーズは、一見、リジットな図形と、不定形な図形とが織りなす装飾のようにも見えます。しかし、この2つの「図」が拮坑し、その緊張関係によって第三項的イリュージョンがたち現れるのです。図が、もう一方の図により解体され、あるいは再編成されるという、いわば画面上で展開される「図同士の格闘技」といった印象を受けました。

     加えて、鐘翊綺氏の作品の、官能的な有機形態と、マットな墨ベタの静かさ、浮遊するような視点によって得られている「SF(スペキュレイティブ・フィクション)」風味のある画面が印象に残っています。

     最後に、残念ながら入賞には至りませんでしたが、轟茂明氏の作品からは、この時勢の不穏さや皮肉めいたものを「絵に落とし込む」という意気込みを感じ、次回も期待したいと思っています。


萱アートコンペ2020 審査講評  
松本直樹 
2020/09/10

     本年の「萱アートコンペ」は、これまでに比べ、たいへん良作に恵まれていました。とはいえ、受賞作品群の選抜における審査員よる討議は、比較的スムーズに、見解の一致がみられたように感じています。

     まず、疋田義明氏の作品に対する大賞という評価については、本コンペにおいて、続けての2度目の受賞となりましたが、(その作品の「重厚さ」からも)こうしたある種のハンデを、軽く超えるものがあったように感じています(疋田氏には後続のためにも、以後このコンペから、はやく、遠く、そして何より高く、羽ばたいて欲しいと考えてます)。

     また、小林大悟氏の、溶け合う1対のペンギンを描いた《ごきげんなつがい》は、その脱力具合とは裏腹に、福沢一郎の《牛》を思わせ(それは、単に構図や色の相似性からだけではなく、《牛》にはない、画面に擦りつけられた黒く光るピグメントの荒々しさからも、感じられました)、非常に深く印象に残っています。

     さらに、⼭川知也氏は、カットアップし、貼り合わせた紙の支持体(ここには紙製糸巻き[?]なども貼り付けられている)へ、(ある種「一般的な」言い方をすれば)繊細で抽象的イメージと、具体的なイメージとを描いています。ただし、その「具体的なイメージ」が、いささか短絡的に選択されているように感じたことも否めません。とはいえ、スリリングで、かつ繊細な氏の仕事は、もっと観たいと思わせるものでありました。

     長雪恵氏の、シナベニヤと彫刻刀と思われる軽やかな浅彫りのレリーフは、木版の原板を思わせると同時に、刷り上げられた版画でもあるような、既存の技法やジャンルの分別を、軽妙に逸脱していく力を感じました。
    今回も多くの(語弊を恐れずいえば)いわゆる「クラフト系作品」と形容されるような作品群がありましたが、あらためて「アート」と名指されるのではあれば、こうした既存のジャンルの分別などから、醒めて、溢れ、さらにこぼれ落ちてしまったものを掬い上げるというのも、この小作品という規定のみが設けられた本コンペの使命だと感じています。

    最後に、惜しくも受賞を逃した⼾塚利⼆氏の1枚のOSBを構成する木片の重なりから、まるでボナールが描くようなイメージをつむぎだした作品、加えて入選には至りませんでしたが、もう少しでクラフトというジャンルから溢れてしまいそうな、Mool氏の《our earth》も、深く印象に残ったことを記しておきます。


萱アートコンペ2019 審査講評  
松本直樹 
2019/09/07

     4年目を迎えた「萱アートコンペ2019」。「素材や技法に対し、自覚的に組織された作品」を選抜することが自身の使命だと考え、審査に臨みました。なぜなら、本コンペは「コンテンポラリーアートの小作品」という条件ゆえ、絵画のみならず様々な版画、レリーフ等々、多彩な作品が並ぶからです。
     とはいえ、今回も絵画が上位を占めましたが、そもそも絵画というプライマリーで自明と思える表現さえも、ここでは様々な素材や技法(の選択)に対して自覚的であった、ということでしょう。
     この意味で、三須登喜子氏の作品は表面もさることながら、それを支える麻のロウ・カンヴァスボードの選択も含め、他のものに抜きん出ていると考えます。
     まずは、素材もイメージも「ひとつの作品」として緻密に、そして大胆に組織されるべきです。それゆえ挑戦的であっても、惜しくも入選・入賞に至らない作品も多数ありました。
     最後に、上位賞は逃しましたが、疋田義明氏の作品に絵画の豊饒さを認め、また入選にとどまりましたが、メディウムの密度のみでイメージを紡ごうとする笠原誉子氏の新しい試みにも目を引かれたことを記しておきます。

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