萱アートコンペ2022 総評 Kac2022カタログ掲載
今回の「萱アートコンペ2022」では、応募可能な作品サイズが拡幅され、作品の並ぶ審査会場はいつになく壮観でした。
F8からF10号という10cmに満たない拡幅であっても、作者の仕草や思考の軌跡は追いやすく、私的にも作品「サイズ」と、画中で展開される「諸相の関係性(世界)の密度」=作品「スケール」についてあらためて考える機会となりました。
審査については、やはり本年も審査員たちの見解は見事に割れ、討議の末の受賞/入選作選定となりました。
大賞である豊田玉之介氏の《untitled》は、シンプルで軽やかな色彩はもちろん、軽妙に分節された線と、その微細な揺れからうまれる、前髪などの「ペラペラな浅い空間」は、たいへん魅力的です。豊田氏は2作品を応募されましたが、当作が選ばれた理由も、他方にはモチーフの面白みがあったものの、こうした大胆で繊細な画面構築が欠けていたためです。
また今回は、版画の応募がいっそう増えました。優秀賞であり、やはり2点応募された下坂靜子氏の《respectively》の選出にいたっても (「沈むような深い空間」のある作品ですが)豊田氏同様の理由があったためと考えます。そして、Blanc賞のカナアキラ氏による《3-4》には、十字にねじれた人物の首元から腰までの動きと、現実から突き放された肌に、美しさを感じました。
そしてさらに、倉羽博之氏による《翠の空に茜の雲》の梅田版画工房賞受賞は、軽妙さや大胆さよりも、緻密で複層的な「絵画」を成立させるための「画力」が認めらたからでした。
こうして受賞作の一端をかえりみると、われわれ審査員は、昨年よりいっそう際立つ、この最低でクソったれた今の世相において、画中の人物の、虚な/物憂げな/達観した/ラリった/視線に、強く惹かれたということがあったのかもしれません。ニュース等で目撃する現実の事象は、どうしても肌身で感じとってしまう、ただ底抜けに堕ちていく時勢を、ゆえに抱えきれない漠然とした底抜けの不安を、解消しても代弁してもくれません。「現実」とは大きな流れの断片でしかありません。しかし「絵」は、(絵空事という言葉が示すように)われわれに、ヴィジョンを、総体的なイメージを、想起させてくれるのです。
また、惜しくも受賞にいたりませんでしたが、特に印象深かった入選作を書きとめます。
鮮やかな色彩と、直接的な空押しとで、紙を穿がこうとする吉村英里子氏の《ささめく》。田代ゆかり氏の《車の中から》には、微睡み体をもたれるバンの後部座席で、ふと見上げた車窓から風景が立ち上がる瞬間が、大山克幸氏の《首のない僕からの手紙》には、指でほじくりかえし擦りつけたかのような(絵具の質感も相まった)「蠱惑的」な筆触が、それぞれ画面にとどめられていました。そして志賀龍太氏の《エンドロール》を「押し」たこと、最後に積極的な素材使いをした意欲的な作品群があったことも、ここに記しておきます。
萱アートコンペ2021 審査講評
松本直樹
2020/10/16
また、全体の作品傾向として、「ねこ」と「室内」というモチーフが多く、現在の「機運」ともいうべきものが、それぞれの作家にこのモチーフを要請していったものなのかしら、と興味深く観させていただきました。
さて、個々の作品については、大賞である《ミントな夜》(肥沼義幸氏)は、憂いた瞳が印象的な絵ですが、「イラスト」という非常に大きなカテゴリに飲み込まれそうになりながらも、どうしてもはみ出してしまう‘余剰さ’がある作品で、この意味で、未だ“絵画”である、という緊張感を持っています。これは優秀賞の豊田玉之介氏の作品にも同様にいえること――つまり「イラスト」や、あるいは「先行例」への‘回収されきれ無さ’からくる魅力ではないか、と考えています。
佐藤未瑛氏の作品は、小作品ながら絵画の多層性に挑んでおり、色彩や、質的に異なる絵具の扱いによって、画面に奥行きや広がりなどを感じました。また、ささきりょうた氏の作品も、黒のみで仕上げられているものの、非常に大きなスケールを感じました。のちに聞いた話しによると、ささき氏は音楽家である、とのこと。なるほど「音楽」にスケールはありますが、いわゆるサイズはありません。
そして、藤木光明氏の《Punga Mare》シリーズは、一見、リジットな図形と、不定形な図形とが織りなす装飾のようにも見えます。しかし、この2つの「図」が拮坑し、その緊張関係によって第三項的イリュージョンがたち現れるのです。図が、もう一方の図により解体され、あるいは再編成されるという、いわば画面上で展開される「図同士の格闘技」といった印象を受けました。
加えて、鐘翊綺氏の作品の、官能的な有機形態と、マットな墨ベタの静かさ、浮遊するような視点によって得られている「SF(スペキュレイティブ・フィクション)」風味のある画面が印象に残っています。
最後に、残念ながら入賞には至りませんでしたが、轟茂明氏の作品からは、この時勢の不穏さや皮肉めいたものを「絵に落とし込む」という意気込みを感じ、次回も期待したいと思っています。
萱アートコンペ2020 審査講評
松本直樹
2020/09/10
まず、疋田義明氏の作品に対する大賞という評価については、本コンペにおいて、続けての2度目の受賞となりましたが、(その作品の「重厚さ」からも)こうしたある種のハンデを、軽く超えるものがあったように感じています(疋田氏には後続のためにも、以後このコンペから、はやく、遠く、そして何より高く、羽ばたいて欲しいと考えてます)。
また、小林大悟氏の、溶け合う1対のペンギンを描いた《ごきげんなつがい》は、その脱力具合とは裏腹に、福沢一郎の《牛》を思わせ(それは、単に構図や色の相似性からだけではなく、《牛》にはない、画面に擦りつけられた黒く光るピグメントの荒々しさからも、感じられました)、非常に深く印象に残っています。
さらに、⼭川知也氏は、カットアップし、貼り合わせた紙の支持体(ここには紙製糸巻き[?]なども貼り付けられている)へ、(ある種「一般的な」言い方をすれば)繊細で抽象的イメージと、具体的なイメージとを描いています。ただし、その「具体的なイメージ」が、いささか短絡的に選択されているように感じたことも否めません。とはいえ、スリリングで、かつ繊細な氏の仕事は、もっと観たいと思わせるものでありました。
長雪恵氏の、シナベニヤと彫刻刀と思われる軽やかな浅彫りのレリーフは、木版の原板を思わせると同時に、刷り上げられた版画でもあるような、既存の技法やジャンルの分別を、軽妙に逸脱していく力を感じました。
今回も多くの(語弊を恐れずいえば)いわゆる「クラフト系作品」と形容されるような作品群がありましたが、あらためて「アート」と名指されるのではあれば、こうした既存のジャンルの分別などから、醒めて、溢れ、さらにこぼれ落ちてしまったものを掬い上げるというのも、この小作品という規定のみが設けられた本コンペの使命だと感じています。
最後に、惜しくも受賞を逃した⼾塚利⼆氏の1枚のOSBを構成する木片の重なりから、まるでボナールが描くようなイメージをつむぎだした作品、加えて入選には至りませんでしたが、もう少しでクラフトというジャンルから溢れてしまいそうな、Mool氏の《our earth》も、深く印象に残ったことを記しておきます。
萱アートコンペ2019 審査講評
松本直樹
2019/09/07