萱アートコンペ2024 10/6~10/27

Comment by Masanori Yamagai

萱アートコンペ2024 総評 / Kac2024カタログ掲載  
山貝征典
2024/9/13

     現代アートの展覧会やイベントなどで「薄暗い空間に、ひろってきたガラクタを敷き詰めしつらえたので、この中に入って何かを感じていただければ幸いです」みたいなインスタレーションが流行っていますが、少なくない鑑賞者から「いやいやそういうめんどくさいやつじゃなくて普通に絵を見たいんですよ」との声も聞こえてきます。実際には、インスタレーションだから/絵だから、という手法の表面的な部分で優劣を付けることは、アート鑑賞の楽しみを少なくしてしまうこともあり、もったいない場合もあります。「なんだろうこれ?」というすぐには理解しがたい投げかけも、アートを動かす力になることもあります。

     そんな中、この「萱アートコンペ」において出展作品の多くを占める絵画(平面作品)の魅力とはなんだろうか?とあらためて考えると、案外むずかしく、また楽しいものです。毎年これだけの数の絵画や版画作品が集まるのはとても意義のあることで、やはり今日においてもしっかりとした絵画(絵)を描き制作したいという人が、少なくないことを示しています。技法や創作スタイルとしては伝統的で古典的ともいえる、人力のアナログ作業を中心にした絵画・平面作品が多く集まる本コンペは、魅力的で貴重な場と体験を与えてくれます。

     美術に限らず何かを鑑賞・体験すること…読書をする、演劇を見に行く、映画鑑賞する、音楽を聴くなどの文化芸術体験で、感動して鳥肌が立ったり、心が揺さぶられて泣いたり、頭がぐるぐるして怖くなったりします。また見たあとすぐにその体験を誰かに話したい、共有したい、となる場合もあります。ジャンルや表現方法は異なっても、共通するその「見てよかった感覚」をむりやり言語化すると「作品に広がりがある」という言い方が近いと考えています。とある絵を見ているうちに、そもそもその絵画とは関係ない空想が頭の中を巡ったり、音を聞いているのに色彩が想起されたり、昔食べたものの味を思い出したり、小説の登場人物を本当に憎んだりすること…それらはアートが持つ「広がり」が起こさせる事象です。逆に言えば、あまり広がらない作品を見た時には、単に1つの造形情報を認識しただけで「はい、わかりました」と心が閉じてしまい、気持ちが次に進まないこともあります。

     コンペの審査時に、審査員同士の議論や意見交換で上がる声に「きれいにうまくに描けているが、でもそれだけな感じがする」「やりたいことやねらいはわかるが、それがそのままわかってしまい、技法と合っていない」というものが少なからずあります。まさにそれこそが、作品に「広がりがない」状態を審査員が感じた時かもしれません。その壁を乗り越え、作品とそれを取り巻く環境を動かし、さらに見る人の感情も動き出す、新しい感覚や体験をもたらすような作品を、本コンペで今後もさらに見ることを楽しみにしています。

萱アートコンペ2023 審査講評 / Kac2023フライヤー掲載  
山貝征典
2023/9/15

     アート作品のタイトルづけとその意義

     たとえば抽象度の高い絵画作品に《座る人》などのタイトルがついていれば「なるほど、ここのかたちが女性が座ってるシルエットに見えるかもしれない…」と考えたりします。またふんわりしたやわらかいタッチの作品なのに《怒り》などとついていたら「なぜだろう?」「逆にそういう悩ましさをねらってるのか」など想像がふくらみ、相乗効果を生むこともあります。そんな中今回の出品作品のうちいくつかに、タイトルの付けかたが作品・表現にとってマイナスになるようなものが、いくつかありました。タイトル部分での自己表出や思いが強すぎたり、作品本体と相性がわるく、せっかくつくりあげた絵画とぶつかってしまうというものです。
     美学者の佐々木健一はその著書『タイトルの魔力』の中で、美術作品を見る際の鑑賞者の態度を2つに分けました。真っ先にキャプションをのぞき込み誰が描いた何という絵なのかを確かめる「教養派」と、キャプションには目もくれず静かに絵だけを見続ける「審美派」がいる、というものです。自分は鑑賞の態度としてはかなり審美派だろうと思いつつ、今回のタイトル付け課題にふれて、やっぱり教養派でもあるし、そしてどちらも大事だと気づかされました。
     アート系コンペではその作品本体はつくるしかないので、やればおのずとできあがります。同じくらい重要なのがその周辺に必ずある要素…額装のクオリティ、掛けるための紐やヒートンの工夫、そのタイトルは適切か、またそれがキャプションとなり絵と並んだ時にどう見えるか、などへの想像力と配慮です。このように総合ポイント勝負の面もあるのがコンペですので、また今後の展開が楽しみです。

萱アートコンペ2020 審査講評  
山貝征典
2020/10/02

     初めての審査参加となりました、ありがとうございました。新入りだからこその「まだよくわかっていない、全体像をつかんでいない視点」をこの場に入れることが自分のミッションだと思い、審査にのぞみました。ポイントとしては、このご時世だからこその前向きで、鑑賞者に新しい体験をもたらすようなもの、ということに注意して選考しました。
     特に惹かれた作品は、村松範男さん《めぐり逢い》の色選択のセンスのよさと軽さ。また長雪恵さん《すすむ》の構成の楽しさ、優しいけれど迫力がある画面です。さらにその他受賞・入選の作品はそれぞれはっきりと伝わってくる、一定のクオリティの高さと魅力があり、審査員の討議の中でもスムーズに集約していったように感じます。
     応募作品全体を見た中で感じたのは、クオリティが大きく二分しているようだ、ということです。アートになっている、またアートとして成り立っており鑑賞者を吸い寄せる力がある作品からは、いろいろな着眼点が生まれ、コメントが次々出てきます。一方同じ空間に並んでいても、何度通過してもあまり視界に入ってこない作品は、アートとしては何かが足りないのでしょう。アート的なものを造形・創作・表現することには、ほとんどの場合意味がありコンセプトもあります(自覚していなくても)。しかし、ねらいや動機がはっきりしていなくても、不順でもあるいは純粋すぎても、最終的につくりだされたものが優れてさえいれば、アートとして私たちに伝わってくるものが必ずあります。そのような作品や表現に出会えるのはとてもうれしいことなので、今後もまた楽しみにしています。