萱アートコンペ2024 講評 Kac20234 カタログ掲載
中でも、大賞に選ばれた高橋周平氏の『色彩が生まれる』については、審査の場で多くの審査員から言及がありました。
『色彩が生まれる』は、絵具の物質性に耽溺することなく、「オーソドックス」な絵画的空間を画面内に構築しています。この「オーソドックス」さは、絵画における多重のメディウム性[●注1]を私たちに想起させてくれます。多重のメディウム性とは、絵画の「奥行き」、つまり絵具の盛り上がりや染みの中に「風景」を見出してしまうという、ある種のイコン的性質[●注2]や、画面と観者の距離により、その都度、異なるイメージが立ち上がる(解像度の高さ=複数性の包摂)などです。
こうした作者の「オーソドックス」さへの志向は、単純に油絵具を盛り上げるという行為から作者を引き剥がし、絵具を拭き取る、あるいは引っ掻く、パステルを使用するなどといった行為を要請し、これが画面を豊かにしています。まさにタイトルにあるように「生まれる」場が、創出されていたように感じました。
奨励賞の『ブンレツする黒い何者』(カミジョウミカ氏)については、行為の反復と、その痕跡である線による強度だけに頼ることなく、事後的にあらわれたであろう形象を丁寧に追っています。行為の反復は、時として痕跡としての作者の実存性を強く押し出したとしても、それが「投げっぱなし」であれば、よりマクロな存在(ひとつの絵画)となったときに、なにか物足りなさを感じてしまうものです。
しかし、『ブンレツする黒い何者』に関していえば、細部の存在感と全体としての存在感とが、うまく調停されていたように感じます。160点以上の応募作の中でも目にとまった、と多くの審査員が述べた理由はここにあったと考えています。
森と人と賞の『てれんぱれんな日々』(大杉祥子氏)は、軽快で可愛らしいイメージのリトグラフ作品で、風で波打つ芝生とシートに寝そべる2人に目が止まります。よく見ると風で吹き飛びそうな、ペラペラなその2名の人物は、もしかするとシートにプリントされているのかも知れません。朴訥とした絵の中に、画中画のようなイメージや、(「紙」と「インク」でしかないという)絵そのものの寓意性が挿入されています。
加えて、惜しくも入選にとどまりましたが『ホールクロップサイレージ』(古川奈津季氏)の、形而上的な静けさの中に、密かに狂気を感じる田園風景が印象に残っています。絵と対峙したときに、まるでロードムービーのワンシーンを見ているかのような感覚を覚えました。
[●注2]イコンとは、ある対象との(形態的)類似性によって、その対象を想起させるもののこと。たとえば、その対象が心の中にあるイメージ(たとえば心象)としてだけ存在するものであったとしても。
萱アートコンペ2023 講評 Kac2023フライヤー掲載
さて、8回目の「萱アートコンペ」。他の審査員から、今回は「手練れが多い」と指摘がありましたが、私自身も同感でした。こうした理由からか、審査員ごと大賞へのノミネートはバラバラで、なにを選考基準とするのか? という議論も生まれたほどです。
そんな中、見ごと「大賞」を勝ち得た佐藤仁美氏の《反射》は、巧みなステイニング(滲み技法)で得られた透明感のある画面に、大胆に、抵抗感のあるパール絵具を薄く敷くことで、画面の中央部分を遮蔽してしまうという、大変「手練れ」た絵画でした。また「優秀賞」は、抜けるような視線の動きをつくる形象と、これに抵抗しまるでタックスかのように視線の流れをくい止める「ブルーシートの掛けられた干草」(?)を点在させ構築するという「手練れ」感のある、古川奈津季氏の作品《ぼっち》でした。
(奨励賞である滝川真紀子氏の《stitch map 202》をはじめとして、他の入賞作を振り返っても)今回の応募作は、いわゆる「風景」にもかかわらず「ここではないどこか」を探し求めるような、そんな作品が多かったように感じます。
こうした作品群の中で、私が推した作品は、小林実佳氏の《眠るまでわからない》と、Shannon Craig氏の《Parallax Shift》でした。
ところで、中国戦国時代の荘周の「胡蝶の夢」は有名です。(荘周は)蝶となって心地ちよく羽ばたいていたところ、突如目覚めてしまい、自分が蝶の夢を見ていたのか、はたまた今まさに蝶が、自分(荘周)となった夢を見ているのか判然としない、というものです。
この説話は、私たちの知覚が絶望的に明晰ならざることと、ゆえに主観的な解釈でしか「現実」を捉えることができないこと、さらには、だからこそ「現実」(という認識)は可塑的であるということを示唆しています。
ともすれば、地球という常に動く惑星に私たちが縛られているからこそ、何万光年も離れた天体を、視差シフトとして観察出来るのだし、もっといえば(対象との距離ではなく)、観察者の知覚器官である右目と左目を隔てる数センチの距離(ズレ=Parallax)の方がよっぽど重要だと気付かせてくれます。あるいは「現実」をよりリアルに直視するために、私たちは、いっそのこと目を閉じて、眠ってしまう方がよいのかも知れません。今回の審査を通じて、このようなことを考えました。
萱アートコンペ2022 総評 Kac2022カタログ掲載
今回の「萱アートコンペ2022」では、応募可能な作品サイズが拡幅され、作品の並ぶ審査会場はいつになく壮観でした。
F8からF10号という10cmに満たない拡幅であっても、作者の仕草や思考の軌跡は追いやすく、私的にも作品「サイズ」と、画中で展開される「諸相の関係性(世界)の密度」=作品「スケール」についてあらためて考える機会となりました。
審査については、やはり本年も審査員たちの見解は見事に割れ、討議の末の受賞/入選作選定となりました。
大賞である豊田玉之介氏の《untitled》は、シンプルで軽やかな色彩はもちろん、軽妙に分節された線と、その微細な揺れからうまれる、前髪などの「ペラペラな浅い空間」は、たいへん魅力的です。豊田氏は2作品を応募されましたが、当作が選ばれた理由も、他方にはモチーフの面白みがあったものの、こうした大胆で繊細な画面構築が欠けていたためです。
また今回は、版画の応募がいっそう増えました。優秀賞であり、やはり2点応募された下坂靜子氏の《respectively》の選出にいたっても (「沈むような深い空間」のある作品ですが)豊田氏同様の理由があったためと考えます。そして、Blanc賞のカナアキラ氏による《3-4》には、十字にねじれた人物の首元から腰までの動きと、現実から突き放された肌に、美しさを感じました。
そしてさらに、倉羽博之氏による《翠の空に茜の雲》の梅田版画工房賞受賞は、軽妙さや大胆さよりも、緻密で複層的な「絵画」を成立させるための「画力」が認めらたからでした。
こうして受賞作の一端をかえりみると、われわれ審査員は、昨年よりいっそう際立つ、この最低でクソったれた今の世相において、画中の人物の、虚な/物憂げな/達観した/ラリった/視線に、強く惹かれたということがあったのかもしれません。ニュース等で目撃する現実の事象は、どうしても肌身で感じとってしまう、ただ底抜けに堕ちていく時勢を、ゆえに抱えきれない漠然とした底抜けの不安を、解消しても代弁してもくれません。「現実」とは大きな流れの断片でしかありません。しかし「絵」は、(絵空事という言葉が示すように)われわれに、ヴィジョンを、総体的なイメージを、想起させてくれるのです。
また、惜しくも受賞にいたりませんでしたが、特に印象深かった入選作を書きとめます。
鮮やかな色彩と、直接的な空押しとで、紙を穿がこうとする吉村英里子氏の《ささめく》。田代ゆかり氏の《車の中から》には、微睡み体をもたれるバンの後部座席で、ふと見上げた車窓から風景が立ち上がる瞬間が、大山克幸氏の《首のない僕からの手紙》には、指でほじくりかえし擦りつけたかのような(絵具の質感も相まった)「蠱惑的」な筆触が、それぞれ画面にとどめられていました。そして志賀龍太氏の《エンドロール》を「押し」たこと、最後に積極的な素材使いをした意欲的な作品群があったことも、ここに記しておきます。
萱アートコンペ2021 審査講評
松本直樹
2020/10/16
また、全体の作品傾向として、「ねこ」と「室内」というモチーフが多く、現在の「機運」ともいうべきものが、それぞれの作家にこのモチーフを要請していったものなのかしら、と興味深く観させていただきました。
さて、個々の作品については、大賞である《ミントな夜》(肥沼義幸氏)は、憂いた瞳が印象的な絵ですが、「イラスト」という非常に大きなカテゴリに飲み込まれそうになりながらも、どうしてもはみ出してしまう‘余剰さ’がある作品で、この意味で、未だ“絵画”である、という緊張感を持っています。これは優秀賞の豊田玉之介氏の作品にも同様にいえること――つまり「イラスト」や、あるいは「先行例」への‘回収されきれ無さ’からくる魅力ではないか、と考えています。
佐藤未瑛氏の作品は、小作品ながら絵画の多層性に挑んでおり、色彩や、質的に異なる絵具の扱いによって、画面に奥行きや広がりなどを感じました。また、ささきりょうた氏の作品も、黒のみで仕上げられているものの、非常に大きなスケールを感じました。のちに聞いた話しによると、ささき氏は音楽家である、とのこと。なるほど「音楽」にスケールはありますが、いわゆるサイズはありません。
そして、藤木光明氏の《Punga Mare》シリーズは、一見、リジットな図形と、不定形な図形とが織りなす装飾のようにも見えます。しかし、この2つの「図」が拮坑し、その緊張関係によって第三項的イリュージョンがたち現れるのです。図が、もう一方の図により解体され、あるいは再編成されるという、いわば画面上で展開される「図同士の格闘技」といった印象を受けました。
加えて、鐘翊綺氏の作品の、官能的な有機形態と、マットな墨ベタの静かさ、浮遊するような視点によって得られている「SF(スペキュレイティブ・フィクション)」風味のある画面が印象に残っています。
最後に、残念ながら入賞には至りませんでしたが、轟茂明氏の作品からは、この時勢の不穏さや皮肉めいたものを「絵に落とし込む」という意気込みを感じ、次回も期待したいと思っています。
萱アートコンペ2020 審査講評
松本直樹
2020/09/10
まず、疋田義明氏の作品に対する大賞という評価については、本コンペにおいて、続けての2度目の受賞となりましたが、(その作品の「重厚さ」からも)こうしたある種のハンデを、軽く超えるものがあったように感じています(疋田氏には後続のためにも、以後このコンペから、はやく、遠く、そして何より高く、羽ばたいて欲しいと考えてます)。
また、小林大悟氏の、溶け合う1対のペンギンを描いた《ごきげんなつがい》は、その脱力具合とは裏腹に、福沢一郎の《牛》を思わせ(それは、単に構図や色の相似性からだけではなく、《牛》にはない、画面に擦りつけられた黒く光るピグメントの荒々しさからも、感じられました)、非常に深く印象に残っています。
さらに、⼭川知也氏は、カットアップし、貼り合わせた紙の支持体(ここには紙製糸巻き[?]なども貼り付けられている)へ、(ある種「一般的な」言い方をすれば)繊細で抽象的イメージと、具体的なイメージとを描いています。ただし、その「具体的なイメージ」が、いささか短絡的に選択されているように感じたことも否めません。とはいえ、スリリングで、かつ繊細な氏の仕事は、もっと観たいと思わせるものでありました。
長雪恵氏の、シナベニヤと彫刻刀と思われる軽やかな浅彫りのレリーフは、木版の原板を思わせると同時に、刷り上げられた版画でもあるような、既存の技法やジャンルの分別を、軽妙に逸脱していく力を感じました。
今回も多くの(語弊を恐れずいえば)いわゆる「クラフト系作品」と形容されるような作品群がありましたが、あらためて「アート」と名指されるのではあれば、こうした既存のジャンルの分別などから、醒めて、溢れ、さらにこぼれ落ちてしまったものを掬い上げるというのも、この小作品という規定のみが設けられた本コンペの使命だと感じています。
最後に、惜しくも受賞を逃した⼾塚利⼆氏の1枚のOSBを構成する木片の重なりから、まるでボナールが描くようなイメージをつむぎだした作品、加えて入選には至りませんでしたが、もう少しでクラフトというジャンルから溢れてしまいそうな、Mool氏の《our earth》も、深く印象に残ったことを記しておきます。
萱アートコンペ2019 審査講評
松本直樹
2019/09/07